あれか、これかではなく

1. 芸術は機能か?

 

映画「サクリファイス」より考え始める。

科学技術万能主義の立場から見て:犠牲とは必要な情報にアクセスできなかった結果であり、完全なシュミレーションが将来可能になれば犠牲は存在しなくなるものと捉える。犠牲を障害に読み換えると、障害部分を技術で完璧に補完できれば、障害は存在しない(意識しなくても良い)ものとなる。理論上はそうだ。

 

 映画に話を戻すと、友人たちが別荘風の家に集まり主人公と妻の関係を中心に不調和が生 まれる中、テレビで核戦争勃発が知らされ混乱する室内の人々。主人公は郵便配達員オットーから召使いのマリアを愛せば、元の平和な世界を取り戻すこと告げられ、マリアの家に向 かい自身の苦い思い出を語りピストルを自分のこめかみに当て、救ってくださいとマリアに 懇願する、二人がベットでシーツに包まれたまま宙に浮かび上がるシーンがあったのち、核戦争など何事も無かったような日常に戻っていた。男は起こった奇跡に感謝の証として、客 たちが別荘を離れている隙に建物に火を放った。炎に包まれた建物と駆けつけた友人達。主人公は手回しよくやってきた救急車に乗せられ画面から消える。ここで一連の行為が主人公 の精神障害からくる妄想から起きたという見方に収斂させられることになる。

 さらに、妄想でないとしたら、核戦争を止める代償として誰も血を流すことなく実現するのは犠牲としてはあまりに軽く感じもする。もちろん犠牲が犠牲として成立するのは結果が 伴ったからであり、それ以上、原因と結果の結びつきは証明できない。けれども、このアンバランスさが主人公の行為や存在を象徴的なものとして際立たせている。

 この映画の監督であるタルコフスキーは核の均衡を背景にした冷戦時代の分断された現実世界に対して、この作品を通して象徴的な表現で闘いを挑んだとも取れる。主人公が映画 の冒頭で不毛な土地に松の枯木を地面に突き立て、少年が木の根本にバケツで水をかけるシ ーンがある。少年は映画の終盤、喉の手術で奪われた発声の機能を回復する。

 

   映画を離れて、わたしたちの周辺を見渡せば ITを中心として科学技術による効率化は目 覚ましいものがある。当たり前だが、技術によって解決できることが飛躍的に増大しても、それはわたしたちがより良く生きるための道具立てのある部分ではあっても、全体ではないことには変わりがない。障害を軽減するような技術の充実は望まれるが、それも人がより良く生きるための方法の一部にすぎない。

 いま障害者と書かず人と書いたのは、より良く生きるという視点からは、障害の有無による違いがないと感じたからだ。そして、より良く生きるという視点からは専門家であるなしに関わらず芸術の持つ意味が重要となる。

 

 

2. 社会の中での芸術文化の意味作用

 

 文化資産という言葉をキーワードに考えてみる。例として、テレビや洗濯機を買うとき予算が決まれば、ある程度情報を集めて購入することは、大抵の人はできる。知的障害者の中にはできる人やそうでない人がいると考えられるが、それは誰か他の人が代わって買い物をすることで問題解決する。では、たとえばクレジットカードを渡され限度額まで使って会議室にかける絵を選ぶとする。今度はテレビや洗濯機を買うようにはいかないだろう。IQ が決め手になるとは限らな い。こと芸術文化についての判断では、障害があることが文字通りの障害になるとは限らない。どんな人にとっても一朝一夕では身につかないからだ。美的鑑賞眼のみならず、マナー や、非言語的な対人スキル、仕草、振る舞い。これらは多くが長年かかって身についたものであり、個人から簡単に取り上げることができないものだ。

   障害者施設での美術療法の現場に目を向けると、本来このことが目に見える形で理解できるはずだ。ところがもし、指導者やスタッフが文頭に述べた科学技術万能論的な観点で、障害による 欠如を補完するための対処療法として美術を捉えている場合、講座運営の方向を大きく誤る ことになる。市場の評価に関係なく、”芸術と共にある日々”の継続のためには誰に対しても対等に敬意をもって接する必要がある。

 

 

※ 前作『ノスタルジア』についてのインタビューでタルコフスキーは語っている。《この分かたれた世界で人が人といかにして理解しあえるのか? 互いにゆずりあうことでし か可能でないでしょう。自らをささげ、犠牲とすることのできない人間には、もはや何もたよるべきものがないのです。(私自身が犠牲をなしうるか?それは答えにくい事です。私にもできないことでしょうけれども、そうなれるようにしたいと思います。それを実現できずに死を迎えるのは実に悲しい事でしょう》。[ A・タルコフスキー『サクリファイス』 ](http://www.imageforum.co.jp/tarkovsky/scrfc.html)

※ 文化資産という考え方もヨーロッパのような階級社会と結びついたとき、社会の分断強化につながる懸念もあるので、慎重に扱う必要がある。

 

宇佐美智恵丸

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コメント: 4
  • #1

    谷口茂 (水曜日, 27 7月 2022 22:28)

    自然選択は試行錯誤に「犠牲」を発生させた。存在可能条件があれば、そこに適合、適応した存在が存続する。存在と条件の再帰性(振動・マルコフ過程)が、フィナボッチ数列の様に強化されて繁栄する。その傍らに「錯誤」であったとして、その存在の一回性を「試行」した「犠牲」がある。しかし、この一回性を示す個は、繫栄する強化され再帰する多くの個が属する種(普遍)と同じ、種を獲得している。個が種なのである。この「犠牲」となった種(たね)に水を注ぐ(意を向ける)ことをし続ければ、自然宇宙の全存在に向き合うことができるだろう・・・。

  • #2

    谷口 追加 (木曜日, 28 7月 2022 10:54)

    「犠牲」についての観方。
    Web.マテマティカ 3.冒険野郎を参照。
    https://mathematica.site/web-mag/web-mag-babylonian/invention-of-numbers-3/

  • #3

    宇佐美智恵丸 (金曜日, 29 7月 2022 20:32)

    またしても、岡本太郎なのだが、以前"人間は木に登り損なった"というエッセイを書いていて、現在地上で圧倒的な成功者になっている人間が、実は木に登れなかった生存競争の落伍者だったという話だ。上手く木に登れなかった故に、危険を冒して地上で生きることを決意した祖先を、岡本は現代のアバンギャルドの原点と捉えていた。
    上手く適応できない不器用であるが故に手を使い道具を作り、火を手なづけたり散々苦労して生き延びてきた人類。かっこよく地上におりたち生物界をリードした冒険野郎ではなく、仕方なく出来ることは何でもやっていただけというこの説、近年、科学的にも裏付けが出てきたらしい。
    https://gigazine.net/news/20090416_not_so_ape_like/

  • #4

    宇佐美智恵丸 (金曜日, 23 9月 2022 08:23)

    利他的な行為は自己犠牲的。
    たとえば看護にも技術だけでなく否定的な意味でなくこれがある。
    一方今問題になってるヤングケアラーは犠牲とみなしうる。選びとった立場ではないから。